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恋愛小説:『名前のない恋』

ペンネーム:吉高光

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――最後に恋をしたのはいつですか?――
その問いを聞くと、私はひとりの人を思い出す。

恋なんて、もっと気楽に楽しむものだと思っていた。
出会って、惹かれて、少しずつ距離が近づいて。
嬉しいことに胸を躍らせ、不安なことに襲われて、そして想いを伝える。
始まりがあって、その先に行きつく場所があるものだと思っていた。

けれど、私の恋は始まらないまま終わった。
誰にも知られず、彼にも届かず、ただ私の中だけで静かに育ち、静かに燃え尽きた。
私は、今でもあなたのことが忘れられない。

彼の笑う顔は、素敵だと思った。
少し照れたように目を細めて笑うところ。
人の話に耳を傾けるとき、相手の言葉を急かさずに静かに聞いてくれるところ。
困っている人を見かけると、すぐに手を差し伸べるところ。

彼は、特別に目立つ人ではなかった。
大きな声で場を盛り上げるタイプでもない。
けれど、彼がいるだけで、その場の空気が少しやわらかくなる。
私はいつの間にか、そんな彼を目で追うようになっていた。

彼とは同じ大学のサークルだったが、一対一で話すことはほとんどなかった。
そんな中、私の大切な友人が病気で亡くなった、翌朝のことだった。

正直、学校に行く気力はなかったが、どうしても提出しないといけない書類があったため、提出するだけで帰ろうと思った。
しかし、彼は私を見ていつものように挨拶してくれた。
「おはよう」
「おはよう」
そして、私の漂う雰囲気があまりにも違っていることに気づいた。
「......どうしたの?」
私はうまく言葉が出なかった。
そんな私の背中を押しながら、人気のないところまで誘導してくれた。
「話、聞かせて」

その時、私は大切な友人が亡くなった日以来、初めて涙がこぼれた。
拙いながらも、何度も言葉を詰まらせながら、私は少しずつ想いを吐き出した。
それでも、彼は静かに聞いてくれた。
この日、彼がいてくれたことがどれほど心強かったことか。

そして何日か過ぎて、私の気持ちも前へ進んでいるとき、彼からとある話を教えてもらった。
「俺ね、何年か前にお母さん亡くなったんだ」
私は、すぐに言葉が出なかった。
慰めの言葉を探そうとしても、どれも軽く聞こえてしまいそうで、ただ彼の顔を見つめることしかできなかった。
「その時、自分がお母さんにもっとこうすれば良かったとか、何で俺のお母さんなんだと思ったし、今でも後悔していることがあるんだけど......。きっと、俺だったら少しでも分かってあげられるんじゃないかと思ったんだ。余計なおせっかいだったらごめんね」

彼の弱さであり、強さを垣間見た気がした。
彼の心の傷があるからこそ、人に優しくできるのだと思った。
そんな彼の傷すらも愛おしいと、そう思った。

私はその日から、彼のことがもっと好きになってしまった。
好きだと気づいてからの毎日は、嬉しくて、苦しい日々が続いた。
彼から連絡が来るだけで心が浮き立った。
偶然隣の席になれば、それだけで一日が明るくなった。
何気ない「お疲れ」の一言を、何度も頭の中で思い返した。

けれど私は、振られた後のことを想像してしまい、何も言えなかった。
彼にとって私は、きっと話しやすい友人だっただろう。
相談しやすくて、気を遣わなくていい相手。
その距離が心地よくて、同時にとても苦しかった。

そんなある日、彼が真剣な面持ちで私の目を見た。
「ずっと言えなかったことがあって、言おうと思ってたんだけど......」
その瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
もしかして。
そんな期待を、私は抱いた。

けれど、彼の口から出たのは、私にとって残酷な言葉だった。
「好きな人がいるんだ」
胸の奥が、静かに冷えていくのがわかった。

彼の好きな人は、同じサークルの後輩だった。
よく笑う、明るい子。
そして、思ったことをちゃんと言える芯の強い女の子だった。
「でも、どう近づけばいいのかわからなくて」
彼は本当に困ったように笑った。
「嫌われるのが怖いんだと思う。今の関係が壊れるくらいなら、このままでもいいかなって」

その言葉に、私は自分を見た気がした。
私も同じだった。
彼に嫌われるのが怖かった。
今の関係が壊れるくらいなら、友人のままでいいと思っていた。
でも、私は彼に言った。
「後悔しないように、伝えたほうがいいよ。この機会を逃したら、もうあの子と話せるタイミングが無くなっちゃうから。ちゃんと大切に思ってるんだから、彼女にも伝わるよ」

本心が悟られないように、必死だった。
私こそ、後悔しないように伝えるべきだというのに。
本当は、言いたかった。
私はあなたのことが好きだから、私にしなよ。
私なら、あなたのことを分かってあげられる。
でも、言えなかった。
彼の、相手を大切に想う気持ちが、あまりにも綺麗で素敵だと思ってしまったから。
私は自分の心の醜さに気づきながらも、それでも彼の背中を押した。

数週間後、彼から連絡が来た。
「付き合うことになった」
画面に表示されたその一文を、私は何度も読み返した。
指先が冷たくなった。
もう終わりだと思った。
それでも私は、必死に指先を動かして返信した。
「おめでとう! 大事にしてあげてね」
精一杯の嘘を打ち込んで送信ボタンを押したあと、私はスマートフォンを伏せて、しばらく動けなかった。

泣くほどの恋なんてしてない。
だって、最初から私のものではなかったんだもの。
そう自分に言い聞かせた。
けれど、溢れ出てしまった気持ちはどうしようもなかった。

それからも、彼と彼女の関係は続いていった。
彼はその後も幾度となく、私に相談してきた。
彼女への誕生日プレゼントは何がいいか。
初めての旅行で、何を気遣えば良いのか。
喧嘩をしたとき、どう謝ればいいか。
私は一つひとつ、親身になって答えた。

「手紙も一緒にさりげなく入れてみたら?」
「相手の反応をよく見た方が良いと思うし、大切にしたいことを伝えた方が安心すると思う」
「それはあなたが悪いよ。彼女がこんな気持ちの時は、尊重してあげてほしい」
彼はいつも「ありがとう」と言ってくれた。
その「ありがとう」が、嬉しくて、苦しかった。

彼の口から彼女の話を聞くたび、私は少しずつ心の何かが削られていく音がした。
聞きたくないのに、知ってしまう。
彼がどんなふうに彼女を大切にしているのかを思い知らされる。
彼らは、お互いの愛を育みあう素敵な恋人同士だった。
毎日、些細なことでも電話し合う仲睦まじい関係だと聞いた。

二人には二人だけの思い出が増えていき、私の知らない彼の表情が、彼女の前にはあるのだと知った。
私は彼の幸せを願っていた。
けれど、願うたびに、自分の恋の行き場を失っていった。
好きという気持ちを消そうと思っても、消えてはくれなかった。
何度も忘れようとした。
新しい出会いにも目を向けた。
彼からの連絡を、すぐに返さないようにしたこともある。
それでも、彼が笑うと、私は思わず嬉しくなってしまった。
彼が困っていると、力になりたいと思った。
彼が幸せそうにしていると、私も嬉しくなってしまう。
どんなに不憫でも、どんなに報われなくても、私は彼の幸せを願ってしまう。
それほど、彼は素敵な人だった。

そして、数年が過ぎた。
私たちは社会人になり、それぞれ忙しい日々を送るようになった。
彼と会う日も減っていった。
一年も連絡を取らない時期もあった。
それでよかったのだと思う。
彼のいない時間が増えるほど、私は彼を想うきっかけが減っていき、思い出さない日も少しずつ増えた。
朝起きて、仕事に行って、誰かと笑って、週末には友人と食事をする。

それでも、完全に忘れられたわけではなかった。
ふとした瞬間に、彼を思い出す。
私が泣き出した日に寄り添ってくれたことを思い出す。

ある春の日、彼から久しぶりに連絡が来た。
「結婚することになった」
画面の文字を見た瞬間、胸の奥で何かが静かに止まった。
驚きはなかった。
でも、心のどこかで別れたりしないかなと願っていた。
彼女と長く続いていることも知っていたし、彼が彼女をどれほど大切にしているかも知っていた。
それでも、言葉にされた時の重さは私の心を深く突き刺していった。
ああ、本当に終わるんだ......と、思った。

続けて、彼からメッセージが届いた。
「お願いがあるんだけど、結婚式で友人代表のスピーチをしてくれないかな」
頭が真っ白になった。
私はすぐに返事ができなかった。
なぜ私なのだろうと思った。
彼にとって私は、そんなに近い友人だったのだろうか。
それとも、彼の恋をずっと近くで見てきた人間だからだろうか。
皮肉だと思った。
私は、彼の恋を応援した人だった。
彼の恋が実るように背中を押した人だった。
彼女へのプレゼントを一緒に選び、喧嘩の仲直りを手伝い、何度も「大丈夫」と言った人だった。
それだけでは留まらず、彼の結婚式で、二人の幸せを祝う。
こんなにも残酷で、こんなにも健気なことがあるだろうか。
その場では予定を確認するとだけ返し、一晩考えてから翌朝、返信をした。

「私でよければ、喜んで! スピーチに選んでくれてありがとう」

結婚式の日、彼はとても幸せそうだった。
白いタキシード姿の彼は、少し緊張していて、でも隣に立つ彼女を見るたびに、やわらかく笑った。
その笑顔を見た瞬間、私はわかってしまった。
彼を一番幸せにできるのは、私ではない。
ずっと前から、わかっていた。
でも、認めたくなかった。
彼は彼女の隣で、一緒にいるのが当たり前かのように笑っていた。
彼女もまた、照れくさそうに、でも世界一幸せそうに笑っていた。
二人は特別だ。
私がどれだけ長く彼を想っても、入り込めない場所がそこにはあった。

披露宴の途中、私はスピーチのために名前を呼ばれた。
マイクの前に立つと、会場の視線が一斉に私に集まった。
手元の紙が少し震えていた。
私は深く息を吸った。
「本日は、誠におめでとうございます」
用意した言葉を、ひとつずつ丁寧に読んだ。
彼がどれほど優しい人か。
人の痛みに気づける人か。
不器用だけれど、人を大切にしようと努力できる人か。
私は知っている彼の良さを、できるだけ穏やかな言葉で伝えた。
途中、彼と目が合った。
彼は少し照れたように笑っていた。
その笑顔を見て、私は泣きそうになった。
最後に、私はこう言った。
「どうかこれからも、お二人らしく、あたたかい家庭を築いてください。心から、幸せを願っています」

拍手が起こった。
席に戻ると、隣の友人が「いいスピーチだったね」と言ってくれた。
私は自分の気持ちに蓋をしたまま笑い、「ありがとう」と答えた。

式の終わり、ゲストが少しずつ会場を出ていく中で、彼が私のところへ来た。
「今日は本当にありがとう」
彼はそう言って、昔から見てきたいつもの笑顔を見せた。
「スピーチ、嬉しかった。やっぱり頼んでよかった」
私は首を横に振った。
「こちらこそ、呼んでくれてありがとう」
少し沈黙があった。
彼の後ろでは、彼女が親族と話していた。
白いドレスの裾が、光を受けてやわらかく揺れていた。

その姿を見て、私はふと、今言わなければ一生言えないと思った。
彼を困らせたいわけではなかった。
何かを変えたいわけでもなかった。
ただ、この恋を、私の中だけで終わらせるために。
私は彼を見た。
「最後に、ひとつだけ言ってもいい?」
彼は不思議そうに頷いた。
私は必死に笑顔を取り繕った。
ちゃんと笑えていたかはわからない。
「あなたのこと、ずっと好きでした」
彼の表情が止まった。
それでも、私は続けた。
「でも、今日で終わりにします。......今まで、ありがとう」
彼は何か言おうとして、言葉を探しているようだった。
けれど私は、彼の言葉を待とうとしなかった。
「幸せになってね」

そう言って、私は会場を出た。
外に出ると、夕方の風が少し冷たかった。
空は澄んだ青から、ほのかな橙へと変わっていくところだった。
私は駅へ向かって歩きながら、涙が頬を伝うのを感じた。
悲しかった。
苦しかった。
でも、不思議と後悔はなかった。

私の恋は、報われなかった。
始まることもなかった。
彼の隣に立つ未来も、彼に選ばれる日も、最後まで訪れなかった。
それでも、私は確かに恋をしていた。
誰かをこんなにも大切に思える自分がいることを、彼が教えてくれた。
誰かの幸せを願うことが、こんなにも美しくて、こんなにも痛いのだと知った。
だからきっと、これは失恋という言葉では終わらせられない。
私の中で、長いあいだ灯っていた小さな火。
消したくても消えなかった恋。
それは、私にとって最初で最後の恋だった。

「最後に恋をしたのはいつですか?」
その問いを聞くと、私はひとりの人を思い出す。

そして、心の中で答える。
あの日です。
あなたに、さよならを言った日です。

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