LOVE you
恋愛小説:『キーウィの恋』
ペンネーム:F
夜の森は、夜行性のキーウィにとって世界そのものである。
月明かりの届かないニュージーランドの森を、キーウィのアオは長いくちばしで地面を探りながら歩いていた。湿った土の匂い。シダの葉を揺らす風。遠くで鳴くモアポークの声。
ひとりの夜は長く、森には危険も多いけれど、アオは夜の森を歩くことが好きだった。
アオはもう二十六歳だった。キーウィとしては決して若くない。仲間たちは年々減っていて、森のあちこちにあった足跡も、今ではめったに見かけない。人間たちは保護活動をしてくれているが、外から持ち込まれたイタチやネコ、イヌは今も森を歩き回り、卵や雛を狙っている。
小気味よい足元の感覚と落ち葉の音を聞きながらアオは考える。
僕は何度、恋というものを逃してきたのだろう。
若いころは、つがいになることが怖かった。キーウィは一度つがいになると、長く連れ添うことが多い。相手を選ぶことは人生そのものを選ぶことであり、だからこそ慎重になりすぎた。そして気づけば、森には独り身のキーウィがほとんどいなくなっていた。
「遅すぎたかな」
誰に聞かせるでもなくつぶやきが洩れる。
そのとき、茂みの奥からかすかな足音が聞こえた。捕食者かもしれない。アオは身を固くする。そっとではあるが気配は確実に近づいてくる。足が動かない。くそ、いつもの散歩ルートから外れたのが良くなかったのか。
目の前の茂みが、無情にもガサリと揺れる。
しかし現れたのは、一羽のメスのキーウィだった。
小柄で、羽は夜露に濡れている。
「お、驚かせてごめんなさい」
そう言った彼女のほうこそ、驚きに目を見張っていた。
その黒々として吸い込まれるような瞳から驚きの色が消えていくのを、アオは見つめた。そうしてアオの驚きと怯えもそれと一緒に消えていくのを感じるのだった。
完全に緊張が解けたふたりは、その安心感からどちらからともなく笑いだした。不思議にお互いに目をそらせないまま。
アオは大きく息をつくと、
「いきなり笑っちゃってごめん、僕はアオ」
「こちらこそごめんなさい、私はルナ」
それからルナはまた面白そうにして言った。
「あなたの足音が聞こえて最初は警戒したの。でもにおいから敵じゃないことが分かってあなたに近づいたら......そしたらあなた、私が顔を出した瞬間3センチくらい跳び上がったのよ。驚いちゃった」
「頼むから忘れてくれないかな。今日で寿命なのかと本気で思ったんだ......」
それがふたりの出会いだった。
初めて出会った夜から、ふたりは一緒に餌を探すようになった。
シダの根元、小川のほとり、倒木の陰、アオのお気に入りの場所、それからルナのお気に入りの場所も教えてもらった。
「ほら、そこ、ミミズがいるよ」
「本当?」
「匂いで分かる」
キーウィは空を飛べない。翼は退化し、体毛のような羽を持つ。だから彼らは地面の世界を生きる。高く舞い上がることも、遠くを見渡すこともできない。だがその代わり、地面の下にいる虫の気配を感じ取ることができる。長いくちばしの先には敏感な鼻孔があり、匂いを頼りに食べ物を探す。
ルナが土をつつくと見事に大きなミミズが現れた。
「すごい」
「年の功かな」
いたずらに積み重ねたと思っていた年数も悪いもんじゃないかもしれない。嬉しそうなルナを見て、アオは笑う。
夜ごと森を歩く日々が続いた。互いの足音が分かるようになり、姿が見えなくても存在を感じられるようになった。日々を重ねるほど、認めざるをえないあるひとつの想いに、アオは気づいていた。
自分は今、年甲斐もなく恋をしている。
いや、今思えば出会ったときからもう、その黒く濡れた瞳に惹かれはじめていたのだ。ここに来て認めざるをえなくなっただけのことで、彼女と出会ってからの日々はたしかに、毎日が恋だった。若いころには感じたことのない、穏やかな感情だった。
胸が苦しくなるわけではない。ただ、ルナが無事でいてほしい、同じ夜を歩きたい、それだけで幸せだった。
「私たち、少なくなったわね」
ある晩、ルナが言った。
「私たち?」
「この谷で暮らしていたキーウィ、昔はもっといたでしょう?」
「ああ」
「最近は声も聞こえない」
静寂が落ちる。森の奥では風が木々を揺らしていた。
「絶滅って、どんな気持ちなのかしら」
ルナがぽつりと言う。
「最後の一羽になること?」
「うん」
アオは少しだけ考えて、口を開く。
「たぶん、寂しいだろうね。でも、」
アオは続けた。
「誰かを愛した記憶があれば、少しは違う気がする」
ルナは何も言わなかった。
ただ、そっとアオの隣に寄り添った。
その温もりを、アオは一生忘れないと思った。
季節は巡り、二羽は正式につがいとなった。
キーウィの繁殖は特別だ。メスが産む卵は体の大きさに比べて驚くほど巨大である。
世界でも類を見ないほど大きい。お腹が日に日に膨らんで、時折苦しそうな顔を浮かべるルナを、アオは見守ることしかできない。
「大丈夫?」
「ちょっと重いけど」
「無理しないで」
「あなた、心配しすぎ」
ルナは少しだけやつれていて、でもいつものルナの笑顔だった。
そして月のない夜、ついに卵が産まれた。
白く大きな卵は、つやつやと輝いて、まるで森に落ちた星のように見えた。
アオは感動した。
ああ、ここに、自分たちの未来がある。
だが個体数など関係なしに、自然は平等に残酷だった。
ある雨の夜、異変が起きた。
いつもなら短い散歩で帰るはずのルナがいつまでたっても戻ってこない。まして今夜は雨なのに。不安を煽るように雨音は増していく。
できることなら卵から離れたくはなかったが、胸騒ぎに耐え兼ねたアオは、卵を安全な場所に隠すと降りしきる雨の中に飛び出した。
匂いを追い、足跡を追い、森中を探す。嫌な予感は増していく。
夜明け近く、いつもより流れの荒くなった小川のほとりの岩の隙間で、横たわるルナを見つけた。
傷ついていた。捕食者に襲われたのだ。
「ルナ!」
アオは駆け寄った。ルナは弱々しく目を開いた。
「見つけてくれたのね」
「大丈夫だ。きっと」
「ううん」
ルナは静かに首を振る。
「分かるの」
アオは言葉を失った。
ルナの体毛を打ち付ける雨足が少しだけ和らいだ。
「ごめんね」
「謝らないで」
「卵をお願い」
アオは必死にうなずいた。
「もちろんだ」
「あなたでよかった」
ルナは微笑んだ。
――最後の恋が、あなたで。
その言葉を最後に、ルナは目を閉じた。雨音だけが静かにあたりを濡らし続ける。
もうじきこの雨も止むだろう。
この場を離れることを心は強く拒んでいたが、ルナにも託されたあの卵をこれ以上放っておくわけにはいかない。どうにか身を隠したルナだが、その襲撃者はまだこのあたりにいるかもしれない。それでなくても飢えた獣は血の匂いを察知するのが早いのだ。雨で匂いが紛れるうちに離れなくてはならない。
ルナの遺骸を連れていけぬ己の体格を恨みながら、血のついていない羽毛を少しだけくちばしで毟った。母親の匂いを少しでも雛に残してやりたかった。いや、ルナが生きていたということを、自分以外の存在と共有したいという自分のエゴかもしれなかった。
ずぶ濡れで帰り着き、卵のそばにルナの遺毛を置くとアオはそれからひたすら卵を守った。雨の日も風の日も寒い夜も、捕食者の気配に息を潜め、趣味だった散歩もせず、ただじっと黙って卵に寄り添った。
ルナとの約束だけを支えに生きる、孤独な日々だった。
そしてある朝、ついに卵に小さなひびが入った。
アオは息を呑む。
殻が少しずつ割れ、やがて小さな雛が顔を出した。
ふわふわの羽、まだ頼りない足、けれど確かに生きていた。
アオは思わず涙をこぼした。
「こんにちは」
久しぶりの声は掠れてみっともなく震えていた。
「君のお母さんは、とても勇敢だったんだよ」
雛は理解していないだろう。それでもアオは話し続けた。
「君のお母さんは、この森を愛していた」
風が吹き、シダの葉が揺れる。
雛はもぞもぞと殻から這い出して、もう匂いがほとんど消えかけたルナの遺毛に体を寄せた。アオの涙がとめどなく溢れる。
「そして僕も愛していた」
遠くで朝日が昇り始めていた。
キーウィは夜の鳥だ。本来なら眠る時間。
だがアオは木々の隙間から見える空を見上げた。
飛べない鳥のまま。
翼を持ちながら飛べないまま。
それでも後悔はなかった。
若いころの自分は傷つくことを恐れ、失うことを恐れ、生きることを先延ばしにしていた。そんな自分に今なら言える。
愛することは、失わないことではない。いつか失うと知りながら、それでも誰かと生きることなのだ。
ルナはもういないが、彼女が残した命はいまここにある。
絶滅危惧種であるキーウィたちにとって、一つの命は小さな奇跡だ。
世界全体から見れば、たった一羽かもしれない。
しかしアオにとっては違う。
その一羽の中に、ルナの笑顔がある。
共に歩いた夜がある。
最後の恋がある。
雛はよろよろと立ち上がった。
アオの後を追うように一歩踏み出すその姿を見て、アオは微笑んだ。
「行こう」
新しい夜へ。新しい未来へ。
森にはまだ危険がある。仲間も少ない。絶滅の影は今も近くにある。
それでも命は続いていく。続かせる。
愛されたこの命が、また誰かを愛するために。
湿った土の匂いをたどりながら、夜の森の奥へ。
かつてルナと歩いたあの道をこのちびにも教えてやらなくては。
最初で、最後の恋だった。
けれど終わりではなかった。
その恋は、一つの命となり、未来となり、森の中で静かに生き続けていた。
LOVE youトップページへ >





