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恋愛小説:『君がくれた恋の名前は』

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恋をすると、人は少しだけ自分を嫌いになる。
好きな人の一言で朝の光まで色を変え、返事のない画面を見つめては、胸の奥に小さな針を増やしていく。
昔の私は、それでも恋は美しいものだと信じていた。誰かを大切に思う気持ちは、きっと磨かれた宝石のように、傷つくほど透明になるのだと。

けれど、最後に彼は言った。
「澪の愛情は、重いんだよ」

怒鳴り声ではなかった。むしろ疲れ切った、静かな声だった。だからこそ、その言葉は私の中に深く沈んだ。水底に落ちた硝子片のように、拾い上げることもできず、触れるたびに胸を切った。

それから私は、恋をやめた。
誰かに優しくされても、胸が温かくなる前に一歩退く。好きになりそうな気配を見つけるたび、心の引き出しに鍵をかける。笑うことは得意だった。人当たりよく、傷ついていない顔をすることも。けれどその笑顔は、ショーケースの中に置かれた石に似ていた。光を受けて輝いても、誰の手にも触れられない。

朝倉陽人に出会ったのは、十二月の雨の日だった。

私が勤める小さな書店は、駅から少し外れた路地にある。閉店後、私は冬の贈り物を集めた棚の入れ替えをしていた。硝子戸の向こうでは、街灯に照らされた雨粒が、細い銀の糸のように落ちている。棚の上には、絵本と詩集、青い石を閉じ込めたような栞が並んでいた。

「すみません。まだ、入れますか」

扉の隙間から顔を出した彼は、濡れた前髪を指で払い、申し訳なさそうに笑った。
明るい人だと思った。けれど、その明るさは真夏の太陽のように押しつけがましいものではない。冬の朝、冷えた窓辺にそっと差し込む光に似ていた。

「閉店しました」
「ですよね。時計を見た瞬間、人生の判断力を疑いました」
「明日でしたら」
「明日だと、姪の誕生日に間に合わなくて」

彼は手の中のメモを見せた。そこには、絵本の題名が二つ、少し右上がりの字で書かれていた。仕事が長引き、ここまで走ってきたのだという。

断るべきだった。規則は規則だ。けれど、肩から落ちた雨粒が床に小さな点を作るのを見ているうちに、私はため息をついた。

「五分だけです」
「ありがとうございます。五分で姪の人生に名作を贈ります」
「責任が重いですね」
「本は重いほうがいいです。心に残るので」

何気ない言葉だったのに、私は少しだけ呼吸を忘れた。
重い。
その言葉は、私の中ではいつも罪の名前だった。

目的の絵本はすぐに見つかった。会計の途中、彼はレジ横に置かれた青い栞に目を留めた。透明な樹脂の中に、細かな硝子片が星屑のように閉じ込められている作家ものだ。

「これ、綺麗ですね」
「売り物です」
「あなたに似ていると思いました」

私は手を止めた。彼は私の名札を見て、すぐに言い直す。

「佐伯澪さん。静かだけど、冷たくない青だなって」
「初対面で、なかなか踏み込みますね」
「すみません。僕の言葉の引き出し、時々勝手に開きます」

その言い方がおかしくて、思わず笑ってしまった。
用意していない笑いだった。

それから陽人は、ときどき店に来るようになった。姪に贈る本を探しに。仕事帰りに読む文庫を選びに。雨宿りに。理由は毎回違ったけれど、最後には必ず「澪さんのおすすめはありますか」と聞いた。

私は慎重に距離を取った。親切に、丁寧に、でもそれ以上は近づかないように。けれど彼は、その距離を乱暴に縮めなかった。ただ、透明な壁の向こうから、楽しそうに話しかけてくる。まるで、鍵のかかった箱を壊すのではなく、持ち主が開けたくなる日まで、そばに座って待つ人みたいに。

「澪さんは、笑う前に少しだけ迷いますよね」

ある夜、彼はふいにそう言った。

「観察力が怖いです」
「嫌なら忘れます」
「忘れられるものなんですか」
「努力します。でも、たぶん無理です」
「正直すぎません?」
「好きな人のことなので」

沈黙が落ちた。
店内に流れる古いジャズの音が、急に遠くなった。

「......そういうこと、簡単に言わない方がいいです」
「簡単ではないので、言いました」

陽人は笑っていなかった。
その真剣さが怖かった。明るい人の真剣な顔は、暗闇の中で灯るランプに似ている。近づけば温かいと分かっているのに、手を伸ばすのが怖い。

「私は、恋愛に向いていません」
「どうしてですか」
「重いからです」

言ってしまってから、後悔した。それは彼に向ける言葉ではなかった。過去の誰かが置いていった刃物を、今の彼に突きつけるようなものだった。

陽人は少し黙った。レジ台の上で、青い栞が光を受けて淡く瞬いている。

「澪さん」

呼ばれた名前が、胸の奥を静かに叩いた。

「重いことは、悪いことなんですか」
「悪いから、捨てられたんです」
「その人にとっては、受け止められなかったのかもしれません。でも、それで澪さんの愛情そのものが悪いことにはならないと思います」

私は顔を上げられなかった。

「宝石だって、重さがあります。軽ければ価値があるわけじゃない。そこに確かに存在しているから、重みがあるんです」

彼の声は、慰めにしてはまっすぐすぎた。私が何年も嫌い続けた自分の一部に、彼は別の名前を与えようとしていた。

「僕は、澪さんのそういうところを怖いとは思いません」
「知らないから言えるんです」
「はい。だから、知りたいです」

その言葉から逃げるように、私は彼を避け始めた。

店に来ても他のスタッフに対応を頼み、メッセージにも短く返すだけにした。傷つく前に離れればいい。期待する前に終わらせればいい。そうすれば、もう誰にも「重い」と言われなくて済む。

けれど心は、そんなに賢くなかった。

彼が来ない日は、入口のベルが鳴るたびに顔を上げた。彼の好きだと言った文庫の棚を整えながら、指先が勝手にその背表紙を撫でた。忘れたいのに、忘れたくなかった。

ある晩、レジの下から青い栞の在庫を取り出したとき、私は彼が最初にそれを見つけた日の横顔を思い出していた。光に透かすように栞を持ち上げ、「割れたものを閉じ込めても、綺麗になるんですね」と言った声。私はその時、笑ってごまかした。けれど今なら分かる。彼は最初から、傷を消すことではなく、傷ごと光に変えることを知っていたのだ。

十二月二十四日の夜、閉店後の店を出ると、雪になりきれない雨が降っていた。傘を開こうとして、私は足を止めた。

軒下に、陽人が立っていた。

濃紺の傘を持ち、寒さで鼻の先を赤くしている。いつもの明るい笑顔はなく、けれど目だけは、こちらから逸らさなかった。

「待ち伏せですか」
「言い方を磨けば、偶然を装うことに失敗しました」
「最低ですね」
「はい。反省しています。でも、今日だけは会いたかった」

私は逃げなかった。逃げるには、彼の声があまりにも静かだった。

「澪さん。僕は、あなたを救うなんて言えません」

雨音が、硝子の粒を撒くように夜へ広がっていく。

「でも、あなたが自分を責めるたびに、隣で違うと言いたい。過去の言葉があなたを縛るなら、今ここにいる僕の言葉も、同じくらい覚えていてほしい」

胸が熱くなった。それは恋の熱というより、凍っていた場所に血が戻る痛みに似ていた。

「そんなの、いつか面倒になります」
「なるかもしれません」
「なら」
「その時は、ちゃんと話します。黙って消えたり、あなたのせいにしたりしません」

涙がこぼれた。
私は、それが怖かったのだ。愛された記憶が、いつか責められる理由に変わること。大切にした気持ちを、後から罪のように突き返されること。

「私、次に恋をするなら、最後にするって決めていました」

震える声で言った。

「また駄目だったら、もう二度と誰も好きにならないって。そう決めないと、立っていられなかった」

陽人は黙って聞いていた。
傘の縁から落ちる雫が、足元で小さく砕ける。

「だから怖いんです。あなたを好きになったら、本当に最後になるかもしれない」
「それなら」

彼は一歩、私の方へ近づいた。傘が少し傾き、私の肩を雨から隠す。

「僕にしてください。その最後の恋」

息が止まった。

「終わるための最後じゃなくて、もう探さなくていい最後にします。あなたが不安になるなら、何度でも言葉にします。怖くなったら、立ち止まります。泣きたい日は、無理に笑わせません。でも、笑えそうな日は、隣で一緒に笑います」

その言葉は、誓いというより、差し出された手のようだった。掴むことを急かさない。けれど離れることもない。そこにある温度を、ただ信じて待っている。

「私は、面倒です」
「知っています」
「すぐ不安になります」
「そのたび説明します」
「愛情が、重いです」
「持ちます。ひとりで持てない日は、半分ください」

こらえきれずに、私は泣きながら笑った。
そんなふうに言われたことは、一度もなかった。私の重さを減らすのではなく、一緒に持つと言ってくれる人がいるなんて、知らなかった。

私は一歩、彼の傘の中へ入った。

肩が触れる。たったそれだけで、胸の奥に灯りがともった。強い光ではない。夜道で迷わないための、小さく確かな灯りだった。

「私の最後の恋が、陽人さんなら」

言葉は震えていた。けれど、もう逃げなかった。

「もう一度だけ、始めてみたいです」

陽人は、泣きそうな顔で笑った。雨の夜に咲く花のような、静かで明るい笑顔だった。

「はい。澪さんの速度で」

その瞬間、店の硝子戸に映った私の顔が、少しだけ知らない人のように見えた。傷ついて、怯えて、それでも誰かの隣に立とうとしている顔。あの日の私なら、きっと信じられなかっただろう。けれど今、胸の奥で凍っていたものが、ゆっくりと水に戻っていくのを感じた。

彼の手が、私の指先にそっと触れた。私はその手を握り返した。強くではなく、壊れたものを隠すためでもなく、これから一緒に歩くために。

過去は消えない。
胸に沈んだ硝子片も、あの日の言葉も、完全にはなくならないだろう。けれど、光の角度が変われば、破片でさえ輝くことがある。

恋は、人を愚かにするものかもしれない。
けれどその愚かさは、誰かを信じたいと願う、切実で美しい祈りでもあるのだと、今なら少しだけ思える。

私の最後の恋は、終わりの名前ではなかった。
それは、傷ついた私がもう一度世界を信じるための、深く静かな始まりだった。

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