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京都の伝統・祇園祭 京都の伝統・祇園祭

山鉾一覧

長刀鉾(なぎなたほこ)

鉾頭に疫病邪悪をはらうとされる、大長刀をつけている長刀鉾。この大長刀、元は三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)が娘の病気の回復を祈願して八坂神社に奉納されたものだと伝えられています。現在では生稚児が乗る唯一の鉾として知られ、古来より「くじ取らず」の鉾として、巡行では必ず先頭を歩く大役を担います。

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長刀鉾
長刀鉾(なぎなたほこ)

保昌山(ほうしょうやま)

古くは「花盗人(はなぬすっと)山」と呼ばれていました。保昌山のご神体である平井保昌は、恋する和泉式部のために紫宸殿(ししんでん)前の梅を一枝折り、持ち去ろうとしたところ、武士に発見され、矢を放たれながらもようやく逃げ帰ったという。ご神体は、その盗み去る姿を現しています。宵山では、梅の花をあしらった縁結びのお守りなどが授与されます。

孟宗山(もうそうやま)

孟宗山は、呉の国の孟宗が病気の母が欲しがる筍を雪の中から奇跡的に掘りあてたという中国の故事から、別名「筍山」とも呼ばれています。ご神体は左手に鍬、右手に筍を持ち、喜んで筍を持ち帰っていく姿が表現されています。こちらでは、親孝行の護符が授与されます。

占出山(うらでやま)

神功(じんぐう)皇后が海外出兵の際に、「肥後国松浦川で鮎を釣って戦勝の吉凶を占った」という故事に由来する「占出山」。別名「鮎釣山」ともいわれています。ご神体に神功皇后をまつられ、出兵中に懐妊していた神功皇后は、凱旋後、無事に出産したことから、安産の神として昔から知られ、会所では安産祈願のお守りや腹帯の授与されています。占出山の巡行順番が早いと、その年のお産は安産だといわれています。

函谷鉾(かんこほこ)

くじ取らずの鉾として、長刀鉾に次ぎ2番目に巡行します。古来中国、斉の孟嘗君(もうしょうくん)が函谷関(かんこくかん)で家来に鶏の鳴き真似をさせ、難を逃れた史話から「函谷鉾」と付けられました。鉾頭に三日月と山形、真木の中ほどに孟嘗君と鶏がまつられています。また函谷鉾が、天保10(1839)年に始めて人形稚児を用いた鉾としても知られています。

山伏山(やまぶしやま)

昔、八坂の法観寺の塔が傾いた際に法力(ほうりき)によって戻したり、亡くなった父を祈祷によって蘇らせるなど、数々の言い伝えが残されている浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)をご神体としています。ご神体が山伏の姿をしていることから、「山伏山」と呼ばれています。

菊水鉾(きくすいほこ)

菊水鉾は、町内金剛能楽堂にある「菊水井(きくすいい)」という井戸に由来しています。金色の十六菊が付けられた鉾頭、菊の露を飲んで700年生き続けているという枕慈童(じどう)で能装束姿の稚児人形、山鉾で唯一、唐破風(からはふう)造りの大屋根を持つなどの特徴があります。創建当初より、菊水井のゆかりから会所ではお茶会(7月13~16日)が催されます。

鶏鉾(にわとりほこ)

鶏鉾は、中国・尭(ぎょう)の時代は天下がよく治まり、訴訟を求める際に叩く太鼓が用無しとなり、その太鼓に鶏が巣をつくったという史話『諫鼓(かんこ)』に由来しています。雄鳥で飾った天冠は非常に豪華で、大人びた顔立ちの稚児人形はとても印象的です。鉾の後ろに掛かった懸想品は、16世紀頃にベルギーで制作されたもので、国の重要文化財に指定されています。

白楽天山(はくらくてんやま)

唐の詩人・白楽天と道林禅師(どうりんぜんし)が問答している場面を現している白楽天山。前掛けは16世紀にベルギーで制作されたトロイ城の陥落が描かれたタペストリー、胴掛けには18世紀にフランスで制作された『女狩人』が使用されています。白楽天は高名な詩人で有能な官僚であることから、悪疫除けと学業成就のお守りが授与されます。

霰天神山(あられてんじんやま)

永正年間(1504~1520年)に京都で大火が起き、霰(あられ)が降り、たちまちにして火が消化しました。霰と一緒に一寸二分(約3.6cm)の天神像が降ってきて、その像をおまつりしたことが「霰天神山」のはじまりとされています。別名「火除天神(ひよけてんじん)」ともいわれ、火除けの神様として信仰を集めています。

月鉾(つきほこ)

鉾頭に「三日月」をつけていることから「月鉾」と呼ばれ、山鉾の中で最も背が高く、さらに重量も12トンを超える最も重い鉾。真木の中ほどの天王座には、夜と水徳の神であった月読尊(つきよみのみこと)がまつられています。また、装飾が細部にいたるまで素晴らしく、天井の帖扇面散図(じょうせんめんちらしず)など、その絢爛豪華さから動く美術館と讃えられています。

綾傘鉾(あやがさほこ)

山鉾の非常に古い形態を残す傘鉾の1つで、大きな2つの傘と棒振り囃子が特徴です。巡行では、6人の公家風装束をまとった稚児と棒振り囃子の行列が先導し、赤熊(しゃぐま)をかぶり棒を持った踊り手がお囃子に合わせて、疫病退散の「棒振り踊り」を披露します。

放下鉾(ほうかほこ)

街角で芸をしながら説法をといた放下僧(ほうかそう)の像をまつることから、「放下鉾」と付けられました。鉾頭は日・月・星の三光が下界を照らす形を示し、その形が洲浜(すはま)に似ているため「すはま鉾」とも呼ばれます。以前は生稚児が乗っていたが、操りの稚児人形「三光丸(さんこうまる)」となりました。巡行では、3人の人形方による「三光丸」の稚児舞が披露されます。

船鉾(ふねほこ)

『日本書紀』に記される神功(じんぐう)皇后の説話に由来する鉾で、別名「出陣の船鉾」と呼ばれています。鉾全体が船の形をしており、舳先(へさき)には瑞鳥である金色の鷁(げき)、船尾には黒漆塗青貝螺鈿細工(くろうるしぬりあおがいらでんざいく)の飛龍文様(ひりゅうもんよう)の舵がついています。神功皇后は妊娠中に戦に出陣し、先勝した後に無事、皇子を出産したことから安産の神とされます。

船鉾
船鉾(ふねほこ)

岩戸山 (いわとやま)

天岩戸(あまのいわと)を開いて、天照大神の出現される日本神話『天の岩戸』にちなんだ山です。山ではありますが、室町時代ですでに鉾と同じ車輪のついた曳山です。山である証拠に、鉾頭には松を立てている。屋上には天照大神を含め、3体の御神体がまつられています。18世紀にインドで製作された胴掛、後掛の緞通(だんつう)も名品です。

岩戸山
岩戸山(いわとやま)

郭巨山(かっきょやま)

中国の史話『二十四孝』のひとり郭巨(かっきょ)は、貧しさのあまり年老いた母と幼子を養うことができませんでした。苦渋の決断の末、幼子を捨てようと穴を掘ったところ、黄金の釜を掘り当てたことで、家族は円満に暮らすことができたのだとか。そのことから、別名「釜堀り山」といわれ、金運招来の山とされています。紺地に神紋の日覆い屋根を用い、他の山と違う特徴があります。

伯牙山(はくがやま)

中国・周時代の琴の名手・伯牙が理解者であった友人の死を嘆き、琴の弦を絶ったという故事『知音(ちいん)』にちなんだ山。ご神体はまさかりを持ち、琴を割ろうとしている姿を現しています。その様子から、明治期まで「琴割り山」と呼ばれていました。

蟷螂山(とうろうやま)

「蟷螂(とうろう)」とは「かまきり」のことで、別名「かまきり山」と呼ばれている。「蟷螂の斧を以って隆車の隧(わだち)を禦(ふせ)がんと欲す」という中国の故事にちなんだ山で、からくり仕掛けのかまきりが御所車の上の屋根に乗り、羽を広げ首やカマを動かす姿に人気があります。宵山では、かまきりがくるりと回って占う「からくりおみくじ」が設けられ、おみくじを引きに毎年多くの人が訪れます。

蟷螂山
蟷螂山(とうろうやま)

四条傘鉾(しじょうかさほこ)

応仁の乱以前の古い山鉾の形態を持つ四条傘鉾は、明治4(1871)年以降長く途絶えていましたが、昭和60(1985)年に114年の時を経て再興されました。傘の上に赤幣と若松が飾られているのが特徴で、この傘の下に入ると厄よけのご利益になるといわれています。山鉾巡行では、地元小学生16名が棒振り踊りを披露します。

芦刈山(あしかりやま)

故があって、妻と離れて難波の浦で芦を刈る老翁が、やがて妻との再会を果たす謡曲『芦刈』にちなんだ山。こちらの会所では、夫婦和合、縁結び、再縁を願う木札が授与されます。ご神体の衣装は山鉾の中でも最も古く、重要文化財にも指定されています。

木賊山(とくさやま)

世阿弥の謡曲「木賊(とくさ)」に由来し、信濃の国で子どもをさらわれた翁が、独りで木賊を刈る様子を表しています。そのため、ご神体は悲しげな表情をしていることも特徴です。また腰に蓑をつけ、右手に鎌、左手に木賊の束を持っています。ここでは、「迷子除け」のお守りが授与されます。

油天神山(あぶらてんじんやま)

油小路綾小路通りにあることから、「油天神山」と付けられました。金色の社殿には、天明の大火後に町内の復興に尽力した風早家伝来の天神像がまつられ、その日が丑の日だったため、別名「牛天神山」と呼ばれています。御神体の菅原道真にちなんで、宵山では学問成就のお守りが授与されます。

太子山(たいしやま)

聖徳太子が四天王寺を建てる際に、自ら良材を求めて山中に入り、大杉の霊木を教えられ、京都に六角堂を建てた伝説に由来します。他の山は真木に松を使いますが、太子山は伝説にもとづき、真木に杉が使用されています。宵山の期間は、「杉守り」と「知恵守り」が授与されます。

鈴鹿山(すずかやま)

伊勢国鈴鹿山で道行く人々を苦しめた悪鬼を退治した鈴鹿権現(すずかごんげん)・瀬織津姫尊(せおりつひめのみこと)がまつられた山。176㎝の長身で山鉾一の美貌とうたわれているご神体は、能装束の出で立ちで神面をつけ、大長刀を左手に持ち、装束の下には安産祈願の腹帯をつけています。らくだが描かれた「黄砂の道」の前掛けや、「桜図」と「紅葉図」の対となった胴掛けも見ものです。

鈴鹿山
鈴鹿山(すずかやま)

浄妙山(じょうみょうやま)

『平家物語』の宇治川の合戦にて、一来(いちらい)法師が三井寺の僧兵・浄妙(じょうみょう)の頭上を飛び越して先陣をとった場面が表現された山。ご神体は、一来法師が浄妙の頭上を飛び越える一瞬をとらえ、木片の楔(くさび)で一来法師の人形を支えているアクロバティックな姿に人目が引かれます。かつては「悪しゅう候山」と呼ばれていました。

橋弁慶山(はしべんけいやま)

謡曲『橋弁慶』をもとに、牛若丸と弁慶が五条大橋の上での決戦の様子を表している「橋弁慶山」。舁山(かくやま)では唯一くじ取らずの山で、巡行時のくじ改めの時、奉行の前で山をまわさず特別扱いになっています。会所では、弁慶の両手足に巻かれた「力縄」にちなんだ心身強健のお守りが授与されます。

役行者山(えんのぎょうじゃやま)

日本に古くからある修験道を主題にした山。山の御神体として修験道の開祖・役行者、一言主神(ひとことぬしのかみ)、葛城神(かつらぎのかみ)がまつられ、役行者が一言主神を使って大峰山と葛城山の間に橋を掛けさせようとした様子が表現されています。16日午後に会所にて、修験道の大本山聖護院から約50名の僧侶を招き、護摩木が執り行われます。

黒主山(くろぬしやま)

謡曲『志賀』にもとづき、大友黒主が志賀の桜を仰ぎ見る様子を表した山。杖をつき、白髪の髷(まげ)のご神体の翁は、いかにも品格があります。山を飾る桜の造花は魔除けになるといわれ、翌年の粽(ちまき)に添えられて授与されます。宵山ではシンボルマークの「黒」にちなんだ限定グッズが販売され、食べられる粽の販売(数量限定)が行われます。

鯉山(こいやま)

龍門という激流の滝を登りきった鯉は、龍になれるという中国の「登龍門」の故事にちなんだ山で、立身出世のご利益があるとされています。山に左甚五郎作と伝えられている、水しぶきを上げながら滝を登ろうとする躍動感が溢れる姿の木製の鯉がのせられています。また、16世紀にベルギー北部でつくられた毛綴(けつづれ)織で古代ギリシャ神話の一場面が描かれたタペストリーが掛けられ、国の重要文化財にも指定されています。

八幡山(はちまんやま)

町内にまつられている八幡宮を山の上に勧請した「八幡山」。山には天明年間(1781~1788年)に製作された金箔の社殿と朱塗りの鳥居があり、鳥居の笠木の上には、八幡山のシンボルである二羽の白鳩が向かい合ってとまっています。宵山では鳩にちなんだ限定グッズが販売され、愛らしい姿から子どもに人気があります。

北観音山(きたかんのんやま)

文久2(1353)年に創建し、毎年後祭の先頭に立ち、「上(のぼ)り観音」とも称される山。ご神体に楊柳(ようりゅう)観音像と脇侍に韋駄天(いだてん)をまつります。天保4(1833)年に豪華な屋根がつけられ、現在の形となりました。町内は昔から有力な文化人や豪商が多く、装飾品や楽器は豪華なものが多いことも特徴です。また、山の後部に柳の枝を差し、巡行後に厄除けのお守りとして授与されます。

南観音山(みなみかんのんやま)

善財童子(ぜんざいどうじ)が文殊菩薩の教えにより、観音菩薩を訪ねた場面にちなみ、北観音山の「上がり観音」に対し、「下り観音山」と呼ばれる。くじ取らずの曳山です。23日の深夜、ご神体の楊柳(ようりゅう)観音像に布を被せて蓮台に縛り付け、激しく振りながら町内を担いで回る南観音山独特の儀式「あばれ観音」が行われます。

大船鉾(おおふねほこ)

大船鉾は応仁の乱以前からの歴史を持つ鉾で、船鉾と同じ神功皇后を御神体に祀り、船鉾が「出陣の船鉾」と呼ばれることに対し、大船鉾は「凱旋の船鉾」と呼ばれていました。船の形をした鉾に人形を乗せた簡素な鉾でしたが、江戸時代になると懸装品の装飾や囃子方も加わり、豪華絢爛な鉾へと変わりました。幾度の焼失に遇うもその度に再興されていましたが、元治元(1864)年の禁門の変で多くの懸装品を失いました。その後は「居祭(いまつり)」として、焼失を免れた御神体などの展示を祇園祭・宵山に公開されていました。2014年の復興により、後祭では最後に巡行する姿を見ることができます。

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